不動産の売買契約では、土地の「境界」をあいまいにしたまま契約を結ぶ「境界非明示特約」が使われることがあります。
古くから使われている土地や、測量がされていない山林・農地などでは、境界がはっきりしない状態で売却したいと考える売主も少なくありません。境界の確認や確定には多くの手間や費用がかかるため、こうした特約を付けて売却を進めるケースがあるのです。
しかし、特約の内容をよく理解せずに使うと、売主と買主の間で後々トラブルになる可能性もあります。
本記事では、「境界非明示特約」とは何か、その仕組みや注意点、トラブルを防ぐためのポイントについて解説します。
境界非明示特約とは
不動産売買においては、原則として売主が買主に対して土地の境界を明示し、正確な面積・範囲に基づく引渡しを行う義務があります。
地面に埋め込まれたコンクリートや金属の境界杭で境界が示される。
しかし、現実には長年利用されてきた土地や、相続・空き家物件などでは、境界が曖昧になっていたり、境界標が失われていたりすることも少なくありません。
このような場合に、売主が土地の境界について説明・保証する責任を一部免除するために用いられるのが「境界非明示特約」です。
これは、「売主は隣接地との境界を明示せず、またその確定義務を負わない」と明記することで、境界の不確実性に関する責任を売主が負わないことを、あらかじめ買主に了承してもらう特約条項です。
たとえば、次のような文言が売買契約書に盛り込まれることがあります。
このような特約は、売主側にとって境界確定測量や隣接地所有者との協議といった手間や費用を省くことができます。
確定測量を実施することで正確な境界・面積を把握できるが、費用がかかる点や、隣地所有者の合意が得られないなどの理由で実施できないケースがある。
一方、買主にとっては後日トラブルが発生する可能性もあるため、内容を十分に理解した上で契約を結ぶ必要があります。
また、境界非明示特約は売主の「すべての責任を免除する」ものではないので、注意が必要です。
もし売主が、越境物や紛争の存在を知りながら故意または重過失により隠していたような場合には、民法上の契約不適合責任や不法行為責任を問われる可能性もあります。
このため、特約を設ける場合でも、実態に即した説明と適切な契約書への記載は不可欠です。
境界非明示特約が使われる典型的なケース
境界非明示特約は、不動産取引において常に用いられるものではありません。むしろ、境界に関する情報が不十分な場合や、確定作業に多大な時間や費用がかかるようなケースにおいて、例外的に使われる特約です。
実務上よく見られる典型的なケースを紹介していきましょう。
相続や遺産分割に伴う売却
相続においては、被相続人が長年所有していた土地でも、境界標の喪失や隣接地所有者の非協力などにより、正確な境界の確認が困難なことがあります。
特に、相続人が遠方に住んでいて現地での交流がない場合には、測量や隣地立会などの負担を避けるため、境界非明示特約を付けて売却を行うケースもあります。
空き家・長期未利用地の処分
近年増加している空き家や耕作放棄地の売却では、所有者自身が長年現地に足を運んでおらず、地積測量図や境界標が存在しないケースが多く見られます。
そうした土地においては、現況のまま売却し、買主がリスクを受け入れるかたちで境界非明示の取引が行われることがあります。
測量未了の山林・農地の売却
山林や農地など、市街化区域外に位置する土地では、過去に一度も実測されたことがないまま登記されているものも多く存在します。地目上の面積と現況の利用実態が乖離していることもあり、境界の確定が現実的でない場合、非明示とすることで売却をスムーズに進める例があります。
低額・狭小地の売買
売買価格が数十万円〜百万円程度と低額の場合や、土地面積が極めて小さい場合には、境界確定のコストが売買額に対して不釣り合いとなること があります。このようなケースでは、買主がコスト面を重視して境界を求めない意向を示すこともあり、非明示特約が活用されやすい傾向があります。
隣地との越境問題が予見される場合
売主が越境の可能性に気づいてはいるものの、測量や隣地所有者との調整が難航することが予想される場合には、問題の顕在化を避ける意図から特約が使われることもあります。
ただしこのようなケースでは、後述するように売主に告知義務違反が問われる可能性があるため、特に慎重な判断が求められます。
買主が負うリスクや注意点
境界非明示特約は、売主にとっては境界確定の手間や責任を回避できる便利な手段である一方、買主にとっては将来的に思わぬ不利益を被る可能性のあるリスク要因となります。
特約の意味を十分に理解せずに契約してしまうと、後々深刻なトラブルに発展することもあるため、以下の点について慎重な検討が必要です。
境界紛争に巻き込まれる可能性
境界が不明確なまま土地を取得すると、隣地所有者との間で「どこからどこまでが自分の土地か」をめぐる紛争が起こることがあります。特に、ブロック塀や建物、庭木、排水設備などが隣地と接している場合には、越境や干渉の有無が問題化しやすくなります。
売買後に買主が境界トラブルの当事者として対応を迫られるケースは、実務上も数多く報告されており、境界確認を怠ったことが原因で訴訟に発展する事例も少なくありません。
将来的な測量・確定に費用と時間がかかる
境界が未確定のまま土地を取得した場合、将来的に建て替えや分筆、担保提供などの際には、境界の確定が必要になります。
その際には、土地家屋調査士による測量、隣接地所有者との立会・協議、図面作成や登記といった手続きが必要になり、数十万円規模の費用が発生することもあるのです。
さらに、近隣との関係が悪化している場合には、立会の拒否などにより確定手続が長期化・複雑化するおそれもあります。
土地の面積や利用可能範囲に誤差がある可能性
登記簿に記載された面積(公簿面積)と、実際に使用できる面積(現況面積)とが大きく異なるケースがあります。
たとえば、隣地の構造物が実質的に自分の土地に食い込んでいて使用できない場合や、逆に自分の土地が他人の敷地として扱われている場合です。
このように、現況と法的な権利範囲にズレがあると、希望する利用ができなくなるおそれがあります。
金融機関による評価・融資の影響
境界が不明確な土地については、金融機関が担保評価を下げることがあり、住宅ローンや事業資金の融資審査に通らない可能性があります。
特に、新築や再建築を予定している場合、境界の確定は建築確認申請や法的制限にも直結する重要事項であり、計画の頓挫につながりかねません。
売主の責任が限定されることによる補償の欠如
境界非明示特約が契約に含まれている場合、買主が後から「境界トラブルが発生したので補償してほしい」と求めても、売主は契約不適合責任を免れる可能性があります。
つまり、事後的に問題が明るみに出ても、売主に責任追及ができないという前提で契約が成立していることになるため、買主は自己責任でリスクを引き受ける覚悟が必要です。
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売主の契約不適合責任の免除には限界がある
境界非明示特約は、土地の境界について「売主が明示しない」ことを合意するものであり、民法上の契約不適合責任を一定範囲で免除する効果があります。
すなわち、買主が引渡し後に境界に関する問題を主張しても、売主は「契約上その点に責任を負わない」と抗弁できるのが原則です。
しかし、民法第570条・第415条などに基づき、以下のような例外に該当する場合には、売主が責任を問われる余地が残されます。
売主が越境や紛争の事実を知っていた場合
たとえば、売主が隣地からの越境や境界紛争の存在を知っていながら、それを買主に告げず「境界非明示」として取引した場合には、不実告知または黙秘による不法行為責任が成立する可能性があります。
これは、特約の有無にかかわらず「信義則違反」として評価され、損害賠償請求や契約解除の原因となることがあります。
そのため、売主としては特約に頼るにあたって、既知の重大な越境・トラブルがないかを慎重に確認する必要があるのです。
特約の内容が曖昧または不十分な場合
境界非明示特約が契約書に十分に記載されていない場合や、口頭のみで合意された場合には、のちにその特約の有効性が争われる可能性があります。
たとえば、東京地裁平成25年6月18日判決では、売主が境界確認書を交付しなかったことに対し、買主がその引渡しを前提として代金の支払いを拒否した事案において、裁判所は売主の全面的な免責を否定しました。
これは、境界に関する説明責任や履行義務の明確化が契約の成立要件として重視された一例です。
特約を有効に機能させるためには、契約書において明確な文言で記載し、重要事項説明書においても同様の説明を行い、買主の納得と署名を得ることが不可欠です。
他人地の占有や明白な越境物の存在
仮に「境界を明示しない」旨の特約があったとしても、すべてが免責されるわけではありません。
たとえば、売却対象の土地の一部が実際には他人の所有地に及んでいる場合や、越境物(塀、屋根、樹木など)の存在が明白な場合には、「契約の目的物がそもそも存在しない」「現況説明義務違反」などが認定される可能性があります。
特に、売主が土地の実態を把握していながら、あえて非明示として隠していたような事情がある場合には、たとえ特約があっても売主の責任は免れません。
境界非明示特約のトラブル防止策とは
境界非明示特約は、土地の境界が未確定な状態でも売買契約を成立させるための実務上の手段ですが、内容を誤解したまま契約が締結されると、引渡し後に深刻なトラブルを招く恐れがあります。
特に、買主側が境界リスクの重大性を十分に理解していなかった場合、後の紛争につながりやすいため、売主・仲介業者・買主のそれぞれが適切な予防策を講じることが重要です。
ここでは、境界非明示特約を利用する際に実務上起こりうるトラブル防止策を、整理して解説します。
契約書・重要事項説明書に明確な記載をする
トラブル防止の第一歩は、特約の内容を曖昧にせず明文化することです。
売買契約書には「売主は本件土地の境界を明示せず、また確定測量等の義務を負わない」といった文言を明記し、重要事項説明書にも同様の説明を記載・口頭で行う必要があります。
また、単に境界を明示しないという文言だけでなく、「隣地との越境の有無は確認されていないこと」「将来的な測量は買主の負担で行うこと」といった実務上の影響についても記載しておくと、買主の理解がより深まるでしょう。
現地確認と境界標の有無を説明する
たとえ特約を付ける場合でも、契約前には現地での立会確認を行い、境界標(境界杭やプレート)の有無や状態を丁寧に説明することが大切です。
買主が現地を確認することで、境界の曖昧さや土地の実際の利用範囲を体感的に把握でき、納得したうえでリスクを受け入れる契約が可能になります。
また、古い公図や既存の測量図など、法的効力が弱い資料でも可能な限り提示す ることで、買主に参考情報として提供することが望まれます。
売主による既知の情報を開示する
売主が過去に隣地所有者と境界をめぐって何らかのやりとりをした経緯がある場合や、越境物の存在を把握している場合には、それを買主に告げる義務があります。
たとえ境界非明示特約があるとしても、売主が知っている情報を意図的に隠した場合には、後日責任を問われる可能性があるため、あくまでも「誠実な情報開示」を基本とすべきです。
測量・境界確定の必要性を買主に説明する
将来的に建物の新築や建て替え、分筆、担保提供などを予定している買主にとっては、境界の不明確さが大きな障害となることがあります。
そのため、不動産業者や司法書士、土地家屋調査士等の専門家から、境界確定の必要性と費用・手続きの概要をあらかじめ説明することで、リスクを可視化し、買主自身が判断しやすいよう配慮することが重要です。
代替案を提示する
境界確定測量が困難または高額な場合には、完全な確定測量に代えて、簡易測量(概況測量)や現況実測図の作成を提案することも一案です。
これにより、境界を「法的に確定」するわけではないものの、おおよその位置関係を把握でき、買主の不安軽減に寄与します。
説明責任の履行を記録化する
説明責任を果たしたことを、文書やチェックリスト等で記録として残しておくことも有効です。
後日、説明がなかったと主張されるリスクを避けるために、買主の署名・捺印を得た書面で「境界非明示に同意したこと」「リスクを了承して契約を締結したこと」を確認しておくことが、実務上重要になってきます。
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まとめ
境界非明示特約は、土地の境界が未確定な状態でも売買契約を可能にする有効な手段ですが、その反面、買主にとっては将来のトラブルリスクを内包する特約でもあります。
特に、相続物件や空き家・山林など、境界標が失われているケースでは、測量や隣地との調整にかかる負担を避ける目的で売主側から提案されることが多いです。しかし、内容を十分に理解しないまま契約すると、後に越境問題や境界紛争、融資の不成立といった深刻な影響を被る可能性があります。
また、特約があるからといって売主の責任が完全に免除されるわけではなく、越境や紛争の事実を知っていながら黙っていた場合には、契約不適合責任や不法行為責任が問われることもあります。
したがって、契約書や重要事項説明書において特約内容を明確に記載し、現地状況や過去の事情も含めた丁寧な説明と記録を残すことが不可欠です。
境界非明示特約を活用する際は、 売主・買主双方が十分にリスクを理解し、透明性のある合意形成を行うことが、円滑な不動産取引とトラブル防止の鍵となります。